夜空を焦がす松明あかし2016/11/14 22:53

11/12(土)須賀川の「松明あかし」祭りに写真を撮りに行ってきた。このお祭りは「日本3大火祭り」と云われている。この祭りの由来を調べてみると、今から427年前の天正17年(1589年)6月、伊達政宗は、会津黒川城(後の若松城)主芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと画策した。このときの須賀川城主は二階堂盛義の後室大乗院で、政宗の叔母でもあった。また、政宗が攻撃した会津黒川城主芦名氏の先代城主芦名盛隆は、大乗院の嫡子であり、滅ぼされた当時の城主芦名義広は、大乗院の孫婿であったことから、大乗院は政宗に降伏することを快しとしなかった。政宗の計略を知った二階堂家の家臣や領民たちは、10/10の夜、手に手に松明を灯し、町の東の丘(十日山)に集まった。そこで、決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、城主である大乗院に進言したのである。10/26未明、伊達政宗は大軍を率い釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。須賀川勢は劣勢にももかかわらず善戦し、敵味方入り乱れての壮絶な戦いとなった。一進一退の激しい戦いが続いたが、伊達政宗に内通していた者が、城本丸の風上にあった寺に火を放ったため町中が火の海と化し、須賀川城も多くの家臣とともに炎に包まれ、文治5年(1189年)から400年間南奥州の雄として権勢を誇った二階堂家、須賀川城は遂に落城してしまったのである。須賀川の兵は、本城落城後も踏みとどまって戦い、ほとんどの兵が討ち死にしてしまった。「松明あかし」は、この戦いで討ち死にした多くの人々の霊を弔うために行われるようになったのである。





コメント

トラックバック